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20年以上前の掲載本です!

あけましておめでとうございます。

 

今年も頑張りますのでよろしくお願いいたします!

 

片付け物をしていたら、こんな本が出てきました〜

 

ジュエリーの仕事がしたい

 

発行は1998年、同文書院から

 

いろんなお仕事の紹介本がシリーズで出版されまして

 

そのうちの一つです。

 

本のタイトルは「ジュエリーの仕事がしたい」

 

私が掲載された本で〜す。

 

昔は何やかやと雑誌に載った時期がありました。

 

一番最初に載ったのは「With」っていう女性誌で

専門学校を卒業して高級宝石店に就職が決まった

21か22歳の時

 

 

当時はお稽古事ブームで、他にも

 

「ケイコとマナブ」「マイレッスン」などの月刊誌でも

取材してもらい〜私の記事が出ました。

 

で、この「ジュエリーの仕事がしたい」という本では

佐藤由美さん、32歳だって!!

 

今から20年以上前ですよ〜

 

ページをめくると・・・

 

佐藤由美

 

ぷぷっ・・・肩書きフリークリエーターだって!

 

たぶん、ライターさんが考えてくれたんだと思う・・・

 

ジュエリーデザイン

 

当時は、異国っぽいデザインが好きで作ってましたね

 

左のはエジプトのパピルスの花をペンダントにしたの〜

 

パピルス可愛いのでいろんなバージョンで作りました!

 

右はインカ帝国とかマヤ文明からデザインしたと思う

 

今でも参考商品としてショップに飾っています。

 

ジュエリー製作本

 

内容はですね、こんな感じで始まります

 

「実は、ジュエリーの勉強を始めるまで

サファイアとアメシスト、どっちが青色でどっちが紫色なのかも知らなかったんです笑」

 

現在ジュエリークリエイターとして活躍する佐藤さんが

ジュエリーに興味を持ったのは20歳の頃

 

その時彼女は歯科助手として働いていた

正しくは歯科受付なんだけどなぜかそう書かれた

 

しかし、昔から工作をしたり絵を描いたり、

手先を動かすことが好きだった彼女にとって

 

「この仕事とは何か違う、

何かもっと自分に合う職業があるんじゃないか」

 

という思いがつきまとう日々でもあった

 

中略

 

専門学校を卒業後 優秀な成績でね!笑

高級ジュエリーサロンに就職

 

そこで海外のクオリティーの高いジュエリーを

たくさん見ることができて、とても勉強になりましたし

 

日本のジュエリー市場は、これから技術的にも

一般の人たちの意識もどんどん上がっていくんだろうなと実感しましたね

まさかバブルがはじけるとか、、、思ってもいなかったよね〜

 

でもまだ22歳の私にとっては、100万,1000万円のジュエリーの営業をするのは

非現実的なことのように思えて

まあ、元がど庶民ボンビーガールですからね

 

ジュエリーサロンを1年で退社し

ホントは会社で、お前らフザケンナヨ!って

ちゃぶ台をひっくり返したくなる事件があって退社しました

もうその会社潰れちゃったし

このことは次の機会に書くわ〜

 

今度は母校で彫金を教えるというアルバイトをしながら

オーダーメイド・ジュエリーの製作を始める。

 

「まだ経験の浅い私にとっては、

一つ一つがチャレンジでした。技術面はもちろん

感性、イメージを形にする集中力、粘り強さが

 

結果としてバランスの良い美しいジュエリーになる事を

学びました。

 

納品したものがとても気に入られ、喜んでいただけると

改めて私も感動したり、その頃は本当に夢中でした」

 

中略

 

ジュエリーは、私の自己表現の手段の一つ。

 

ジュエリーは「愛」だと思うんです

 

創っていく過程で一つ一つ手を掛けていく私からの「愛」

 

人の手に渡り、それが贈り物ならば、大切な人への「愛」

 

自分への贈り物だったとしたら、自分への「愛」

 

そして美しい石を産み出してくれた大自然からの「愛」

 

ジュエリー自体は小さなものだけど、

そこにはたくさんの「愛」がつまっていると思うのです

 

 

中略

 

2〜3年後に向けてショップを構える準備も進めている

 

実際は3,4年後にオープン!しました

 

彼女の目指すジュエリーは、愛しく、美しく

またユーモアがあり、人の心を豊かにしてくれるもの。

 

そして新たな可能性を感じさせるもの。

 

アンダーグラウンドの作家としてのカラー

なんだよ〜アンダーグラウンドって・・・

まあ確かにメジャーではないか・・・

 

アイデアの柔軟性、装着感などへのこだわりといった

クラフトマンシップを心がけている。

 

 

とまぁ、こんな内容でした!

 

今のように、ネット社会になるとはね・・・

そのころは全く想像もしてない・・・

 

 

今年は54歳になるんだわ〜〜〜

 

あと10年は頑張りたい!!

 

視力が持てば、生涯現役で!!

 

修理とかジュエリーアクセサリー困った時のSOS

 

お役に立てるお仕事を続けていきたいと思います!

 

 


私がこの仕事をするようになったのは・・・

私がジュエリーの勉強を始めたのは

なんと34年前!のことでした・・・

 

ここへお店を開いてからは16年経ちます。

 

 

自作の品物を並べて販売したり

 

お客さんの注文をお受けして制作したり

 

修理やリメイクのご相談を承ったりする毎日です。

 

 

ふらっと立ち寄ってくださった方から

 

「いいわね〜ご自分の趣味がお仕事になって〜」

 

と言われたりもします。

 

 

でも、始めた頃の私は

実はジュエリーやアクセサリーに全く興味がなかったので

 

「趣味を仕事に」とは少し違うかもしれませんが

 

「物作りが大好き」なことに間違いありませんでした

 

 

 

こうして今、ありがたいことに

長年、ごひいきにしてくださるお客様や

 

地域の皆様も気軽に寄ってくださり

 

HPで見つけて

わざわざ遠方からご相談にいらっしゃる方も増え

 

 

微力ながらも、誰かのお役に立てる事ができて

この仕事を選んで、続けて良かったなぁと思います。

 

 

ブログを始めてからも、何年も経ちましたし

突然ですが、これまでを振り返ってみようかな〜なんて

 

 

せっかくなので自身の記録として

 

幼少期から書こうと思うので

何回かに分けてアップします〜

 

ご興味のない方はスルーしてくださいね!

 

 

 

 

 

子供の頃は特殊な家庭環境で育ちました

 

私は5人兄弟のまん中ですが

5人が一緒に生活したことはありません

 

なので私は、その時々で

末っ子でもあり、長女でもあり、

一人っ子でもあるような環境でした

 

 

生まれたのは仙台です。

 

父が務めていた大学のそばで

青葉城の裏手?の

公務員団地に住んでいました

 

学生運動がピークだった頃で

その先頭に立つような父でしたので

 

大学をクビになった父は

 

ノイローゼ&育児放棄の母と離婚し

 

15以上歳の離れた美人な大学院生と再婚しました

 

 

そのため、

姉は中学から、兄は高校から

東京でそれぞれ下宿生活となり

 

私はまだ小さかったので

 

3~5歳の間は

巣鴨の祖父母の家で育ててもらいました

 

家におもちゃはなかったけど

 

外遊びと読書が大好きで

 

親戚のおじさんがくれた

分厚い童話全集が一冊あるだけでしたが

 

ルビがふってある本なら読めたので

それをなんども繰り返し読みました。

 

色なしの挿絵がたまにちょこっとあるだけなので

異国のお話は、想像力を膨らませて・・・

 

あとは、TVアニメ

アタックナンバーワンの真似をして

 

こずえ、行くわよ!そーーれっ!と

畳の上で、紙風船でアタックしたり

回転レシーブしたり・・・

延々と一人で楽しく遊びました〜

 

紙風船だから、スローモーションになるんです笑

 

実写のバレーボールドラマもあったっけ。

主人公ユミだった?イナズマ落とし?竜巻サーブ?

ちょっとうろ覚えですが・・・

 

あと、デビルマンも好きでした〜

夢にアキラが出てきて、バイクの後ろに乗せてもらった!

 

 

祖母は働き者で、裁縫や料理が上手で

 

毎年、樽で漬ける白菜の漬物や

きゅうりのぬかづけが絶品でした

 

日本画を描くのが趣味で

茅ヶ崎に引っ越しをした80歳まで続け

地元の銀行に祖母の絵が飾ってありました。

 

私の姉は、洋服のデザイナーになったので

 

姉と私の手先の器用さは、

祖母譲りかもしれません

 

その頃、農林省から森永へ移った祖父は

缶にいっぱい詰まったウエハースを

よくお土産に持ち帰ってくれましたが

 

当時のはなんだか薬臭くて

すぐしけちゃうし、美味しくはなかった・・・

 

祖父は毎晩、隣で寝るときに

お話をひとつしてくれました。

 

私は日本昔話や民話を、本でたくさん読みましたが

祖父の話はそのどれともかぶらないので

おじーちゃんすごい!と思っていました。

 

新潟出身の祖父が

昔から聞き伝えで知ったお話もあったでしょうけど

多くは、創作だったんじゃないかと思います。

 

祖父の大好きなお相撲さんが話によく出てくるので笑

 

 

さて父と継母は、東京でアパート住まい

 

2人で外国小説の翻訳仕事をしていましたが

一冊終わると飽きたのか?さっさとやめて

 

私を引き取り、3人で八王子に住み始めます。

 

そこで私は幼稚園に数ヶ月だけ通いました

 

絵を描いたりが好きで

 

リカちゃん人形などのおもちゃは買ってもらえず

 

紙の着せ替え人形を買ってもらい

 

自分で好みのドレスや洋服を描いて手作りし

それを着せて遊んでいました。

 

 

父の新たな職場が

神奈川県立リハビリ病院に決まったので

(医者じゃないです。言語科の先生)

厚木の緑ヶ丘に引っ越しをしました。

 

 

裏手に農協の山があり、田んぼでザリガニ取ったり

自然がいっぱいの環境です

 

次に、病院勤めの家族が住む

厚木市戸室の団地へ。

 

団地には子供が多いので、

缶蹴り、ケイドロ(ドロケイ)三角ベース。。。

穴掘って角材とトタンで基地作りと

 

外で遊ぶのに事欠きません。

 

ある日、今日は誰も出てこないな〜と

私は一人で、団地内の人があまり入らない芝生に

「小人の家」を何気に作り始めました。

 

玄関、ベッド、テーブル・・・

詳細は忘れましたが、葉っぱや小枝などで

ジオラマを作ったのです。

 

自分で言うのもなんだけど、その出来がすごく良くて

私は物作りが得意なんだなーと、自覚した気がします。

 

次の日見に行ったら無残につぶれてた悲し

 

 

学校では画板持って写生によく行かされました。

 

風景画はあんまり好きじゃなかったし

それほど上手じゃないけれど

 

教室の後ろに貼り出される時に

金色の折り紙を付けてもらい。

 

でも今思うに、

私がこの仕事を確立させるまでが

遅咲きすぎたのは

 

貧乏だったのもあるけれど

 

小さい時、誰かから

自分の才能を褒めてもらったことがないので

(親は無関心、学校も転校ばかりで記憶がない)

 

だから小中高の間

物作りの方向に行こうとは思いつきませんでした

 

 

DVがエスカレートする継母から逃れ

中学2年生から一人暮らしを始めて

正月など友達と遊ばない日は、手芸に没頭しました

 

フェルトでマスコット作りから始まり

 

編み物、ミシン・・・10代の時は、

買い物に行くとテンション上がるところは

 

原宿に次いでユザワヤ!キンカ堂!

 

図書館で手芸の本を借り

本に載っているままを作るのは嫌なので

自分でデザインをアレンジして

 

こっちの方が断然可愛い!と1人で盛り上がり

コマこまと作っていました。

 

中1の時、家庭科で

枕カバーを作りそこに刺繍をする課題がありましたが

デザインは自由で、私は天使の刺繍をし

 

それが・・・プロか?と思うほどの仕上がりで

自分でびっくりしました。自画自賛
 

しか〜し、図画工作でも、家庭科でも

デザインの自由度がないものはつまらんのでサボり

提出すらしないので

 

通知表では2とかでした・・・笑

 

 

 

私が作ったものは何も手元に残ってないけど

姉のところに「一休さん」のマスコットがあることが

大人になって判明

 

中2の私が盲腸で入院となり

社会人で働いていた姉が世話をしてくれました

 

退院した時に、姉が 

これカワイイからちょーだいと言うので

しぶしぶ一休さんをあげたんだそうです・・・

 

その一休さんが

めちゃプロ技なパターン&縫い目&デザインで

かなり可愛かった!

 

お姉ちゃんいつか写真送って〜

 

今はもうあんなにうまく作れないと思う。。。

 

続く

 


人の心の闇が一番厄介だと思う

予報では大雪

でも、道に積もることはなく

 

今日、都心で受験の人たちに

交通の影響がなさそうでよかった。

 

家猫には湯たんぽを、

外猫のお家にはカイロ2個入れてきましたよ

 

どちらも高齢のおばあちゃん猫なので

なんとかこの冬も乗り切って欲しい。

 

 

みーしゃん

 

グレーな空の日だからこそ、

つらつらと今日は長いです。

 

連日、報道されている

 

10歳の女の子が父親からの暴力で亡くなった

おぞましく痛ましく可哀想すぎるニュース

 

後からごちゃごちゃ言っても

あの子はもう死んでしまった。

酷すぎる。

 

 

死亡という最悪の結果だったから

大きく報道されましたが

 

あれは氷山の一角だと思うんです。

 

世の中からはかなり見えにくいけど

 

親に 理不尽な日常を強いられ

苦しくても

頑張って生きてる子がもっといるはず。

 

ギャンブルやゲーム、アルコール依存

精神疾患、貧困などからの育児放棄

 

そういうのは

周りの保護者からも気付くことができますが

 

外面をやたら気にする親や

自身も親から虐待されてた親や

高学歴な親が行う、子どもへの虐待は

 

外からはわかりにくいんです。

 

奴らは

自分の心の闇を 自分の支配下にある弱い者へぶつけて

 

少しずつ、どんどんエスカレートする

 

家族がいても守ってくれないんだから

 

近所の人や、学校関係者、周りの保護者たちが

ちょっとでもあれ?と思ったら

 

おせっかいおばさんになるしかない。

 

子ども達の話に耳を傾けたり

通学の時などに声かけして様子を見たりしましょう!

 

 

虐待されている子は、

本当のことはなかなか言えません。

 

言ったところで、

 

というか、

どう言ったらいいかもわからない。

 

だって子ども自身は

なぜ自分が痛めつけられるのか

理由がよくわからないからね。

 

親が自分のことを嫌っている

それははなんとなくわかるけど

 

たまに優しい時もあるから

 

やっぱりこれはおかしいぞと

全否定できるようになるには

 

中学生くらいにならないとね・・・

 

言ったところで

この状況が簡単に変わると思えないし

 

もっと恐ろしい事になるぞって

うすうすわかる。

子どもは本能で自己防衛してますから。

 

今の小中学校では、

アンケートや、スクールカウンセラーからの

お便りみたいなのが年1くらいである。

 

あの内容は8歳くらいの時に書いたんでしたっけ?

そのアンケートって、担任は見ないのでしょうか?

 

ああもう

関係ない私たちがわちゃわちゃ言ってでも

次の犠牲になる子どもをなんとか救いたい。

 

 

私もちょうどその年ごろ、

継母からの暴力と食事内容の酷さが

エスカレートしてきた時期でした。

 

大人になってその話をすると、


どうして誰かに言わなかったの?

お母さんが殴るって、

なぜお父さんに訴えなかったの?

 

皆そう言います。

確かに そうだよね。

 

でも 言わなかった。

言ってもどうにもならないと 

思っていました

 

普段から、

私が何か要求をすることはありえない

普通の親子じゃ考えられない日常が

それが「わが家のあたりまえ」


 私は小さい時から本ばかり読んでいて

そのせいか、

やや大人びた子だったので

(同窓会でクラスメイトにそう言われる)

 

ある程度達観?じゃないな

あきらめてました

 

0~3歳まで暮らしてた生みの母親はひどいネグレスト

 

3~6歳までは祖父母のもとで暮らし、

とても可愛がってくれたので

それは救いだったと思います。

 

6~14歳まで一緒に暮らした継母は

美人で高学歴で偏頭痛持ちで

友達がいない、一人っ子タイプ

 

私が8歳の時、弟が生まれ、

10歳の時下の弟が生まれ。

 

その頃から継母はノイローゼ気味で

家事のほとんどは私の日課となり

 

中学になると、

朝練前に家事をこなすため

 

朝5時、

継母が私を起こしにやってきて

手の甲で私の頬を3〜4回叩きます。

 

ぽんぽん、じゃないです。

頬やこめかみ、頭に

骨にゴンゴン!って響くほど叩く。

 

まだ日も十分に上がらないうちから

家族5人分の洗濯物を庭へ干し

玄関、庭、門の前を掃き

ゴミ出し(庭ゴミが多くて重い)

布団干し(昔の布団って重かった)

 

継母が

アルミのお弁当箱に詰めてくれたのは

8割がゴハン、2割が茶色い切り干し大根

 

以上。

 

悲し。

 

学校でのランチタイム

 

隣に座るオチアイ君は

当時羽振りがいい運送屋の末っ子で

お弁当の中身がとにかくいつも豪華です。

 

クラスのリーダー的なオチアイ君

 

私の2色弁当を横目にちらりと見ました。

 

見られた! やべ! いじられるか?

そう思ったけど

 

スルーして 見て見ぬふり

 

オチアイ君て優しいんだね・・・

 

それからは、朝 継母が

下の弟たちの世話でバタバタしてるスキに

 

冷蔵庫からカニカマやきゅうりを出して

パパッと詰めてその弁当箱を見つからないように

家の裏の塀の上に隠しておき

 

学校へ持っていくという涙ぐましい努力した。

 

帰宅したらまず、

台所のシンクにこんもり山積み!

の、洗い物を片付けて

次に洗濯物をたたみます。オムツ多し

 

部活で疲れてるから、

時にはウトウト居眠りしたり

洗濯物の山に隠して本読みながらこなしてると

つかつかとやってきて、ゴンゴン頭を殴られます 

 

 喋るかわりにパンパン、ゴンゴン殴る。

 

毎日、上の弟を公園に連れていく事と

 

おつかいも私の仕事で、

買い物メモとお金持って

毎日スーパーであれこれと

パン屋でパンとヨーグルト

焼き鳥屋でレバーを買うのが日課

 

特売の洗剤とかデカかったから

チャリでも2往復くらい行かないと

 

なんかやたら買い込む人で

家の中ごちゃごちゃしてましたね

 

 

店主がおまけでくれるネギま

帰り道さっさと食べて私の栄養に

 

夕飯は私だけ先に食べさせられます

内容は、

これ何日前の残飯よ?っていう

 

夜勉強してると、

つかつかとやってきて

教科書をバンって閉じて

ゴンって殴る。


家事はキライじゃないけど、

いちいち殴ってくるのが、、、

 

一度、

朝から寝るまで

殴られたの数えてみたら

30回だった

 

中学生にもなれば反射的に

殴られるとき体をよけたり

 

すると倍の強さで殴ってきます。

よけるとムカつくんですかね。

 

私にも自我が芽生え

あの人は少し病んでいると気づき

いつかどうにかやり返してやる!

と、心の中で静かなこの戦いを

「冷たい戦争」と呼んでいました。

 

もうすぐ兄姉のように一人暮らしができる

その希望だけで

日々の我慢ができたのです

 

ある日帰宅して、

おやつのいちごに牛乳がかかってて

(弟が好きなのでよく出るメニュー)

 

なぜかその日は、

いちごがすでに潰してあって

 

ママ今日は機嫌がいいのかな

わざわざ潰してくれるなんて。

 

そう思って一口、食べてみたら

うぇ〜

いちご全部腐ってました。

 

殺意を感じましたけどね、

私には楽しみな未来があるので・・・

 

その晩、

「この家を出たら持っていくもの」

の荷物整理をして押し入れに隠し

 

いつかくる自由を楽しみに

眠りましたよ。

 

一番恐ろしかったのは

 

小6の時だったかな

中1だったかな

ある日帰宅したら

机の上に

 

恨みつらみを書き綴った

私の日記がバーンと開かれていた

 

やっ

べえぇ^^^^

 

その時もめちゃ殴られましたよ。

その晩、さすがに父親が

私にこう言ってきました。

 

「自分だけが不幸だと思うんじゃない」

 

だって。なんだそれ呆れるし

日記は勝手に捨てられたし。


タイムマシンで戻れたら


オマエが選ぶ女がどれもしょーもないからこうなるんじゃ!と言ってやりたい。


尋常じゃない、異常

そうなるまでじわじわと進み

家庭外の誰も気づけない

 

被害者は、声をあげにくい

 

恋人間や、夫婦間でも

DVはエスカレートします。

 

離れてからは

継母に呪縛されることはないですが

 

もし会うことがあったら

一度、

思いきりぶん殴ってお返ししよと

弟に言ったことがあります。

 

でももう、私もいい年だし、

殴ったら手が痛いのでやりませんけど。

 

 

今考えると、

継母は人として未熟で、

コミュ障で

自分のストレスを

どう発散して良いかわからなかったんでしょうね。

 

全く大迷惑です。


確か、大学院で

小児の心理学みたいな専門的な事を

学んでいたらしいから

おそろしや


紙の上で 頭でっかちに

こ難しく勉強しただけじゃ

役に立たない時代だったのねきっと


 

小学校の同級生に

オマエ体弱くて休みがちだったよな

と言われますが、

違うのよ。

 

風邪引くとなぜか3週間は隔離部屋に入れられ

弟が小さいうちは

家の手伝いがあるからと遠足に行かせてもらえず

部活も休めと言われてホント困った。

 

小中学校にまともに行かせてくれなかったことを

一番恨んでます。

 

それでも唯一よかったなと思うのは

 

中学の時、

おっかないヒサコ先輩にボコボコにされた時

 

あれれ?

家で毎日殴られているから

ボクサーのように慣れるみたい。

 

全く痛くなかったので、私だけ泣かなかったら

お前すげーな、みたいなこと言われ

それから仲良くなったという

(仲良くなんてしたくなかったけど笑)

 

あと、重いもの持つ家事ばかりこなし

当時の握力が右38!

テニスの腕がちーと上がり

体小さかったけど腕相撲すると強かった

 

さて今日のまとめ

 

世の中は便利になって

家事も楽になったし、お買い物だって届けてもらえるし

 

情報が溢れているけど、

その分、人の心の闇は

よりややこしく深くねじれてしまうのかも

 

難しいですね。

 

人とコミュニケーションをとるって結構大事と思います。

カッコつけずに付き合える人間関係があると

いいと思います。

 

変な家族からはさっさと逃げてください。

子ども達を見守りましょう。

 

 

 


同窓会に行きました。

昨日は高校の友人たちとの忘年会に行ってきました。

 

集まったのは女子6人。

出身中学も、高校でのクラスもバラバラだけれど、

高校入学時から卒業まで一緒に行動したメンバーで、

しかしこうして集まったのは初めてのこと。

 

これまでは子育てや仕事でなかなか機会がありませんでした。

 

話は盛り上がり・・・

自分ではすっかり忘れている

「あのときこんなことした」話

全くおバカなことだらけ。

 

私たちが通った高校は平塚の山の上にできた新設校

通学は不便でしたが校則はゆるく自由で、

身だしなみでとやかく言われることはなく

そのかわりテストの合計点が1点でも足りなかったり、

出席日数が一日でも足りないと進級できなくて、(追試や補講はない)

 

必死に勉強して受験したのに、入学後バイトと遊びに呆けた私は、

テストと出席日数に追われてそこは本当に苦しみました。

(大人になってからも度々、テスト!とか卒業できない、みたいな夢を見て。)

 

中学2年生から一人暮らしをしていた私のアパートには

同級生のほか、中学からの友人、他校の友人、先輩後輩も

ワラワラと集まり交友関係だけは広く、遊ぶことに事欠かず。

 

私の原点とも言えるそのアパートは、海岸線と呼んでいた135号線から200mくらい入った

小さな商店街の真ん中にある一本松、その「扇の松」の隣にありました。

 

夜、バイトから帰ってくると、地元の先輩たち(2〜4歳上の)が10人〜15人くらい、

扇の松の下に集まって、楽しそうにおしゃべりをしているのです。

 

彼らはとても陽気で、そして仲がよく、私にとって頼もしい存在でした。

一人暮らしの私を妹分として見守ってくれていたおかげで

のびのびと安全に?楽しくお外で遊べたのです。

 

野郎同士が集まるとこんなバカな話するんだなーと、勉強になったし。

皆、休日に自慢のマイカーのエンジンを積み替えたり、カスタマイズして

夜な夜な箱根に試走に行きました。途中、お玉ケ池のお化け屋敷に寄って肝試し。

ササッと往復して小1~2時間です。後に自分も免許を取って走り回ったので、

山道の運転は大好きです。当時はマニュアル運転ですね。

 

毎週土曜日、大勢で富士急ハイランドへ行きオールナイトでスケート鬼ごっこしたり

 

この頃の話は、一冊本にできるくらい面白いことがたくさんありました。

 

というわけで、高校の先輩たちとも仲良く、誘われてバンド活動でライブしたり、

好き勝手に楽しい日々を過ごし。

 

夏は江ノ島、大磯や白浜の海に行き、祭りでお神輿を担ぎ。

学校帰りバイトのない日は誰かの家か喫茶店へ。

隣のテーブルには他校の女子グループがいて、もちろん仲良しです。

そうして横のつながりがどんどん広がり、

街のおまわりさんとも、繁華街の客引きのおじさんとも、顔なじみでした。

 

高校3年になり、遊ぶにも飽きて?真面目に学校に通って無事卒業。

文系クラスになってからはクラスに女子が多いので、

ますますおバカな事も着替えもお構いなし。

 

危険なことも多々ありました。行動範囲が広い分

バイクの事故や怪我でしょっちゅうトラブルも。

でも辛かったことより楽しかった思い出の方が残るものです。

 

嫌なことがあったり、何かを決める時、私は一人なので誰かに相談する習慣がなく、

そのため何事も決断は早く、悩む暇あったら次!となったのだと思います。

そして周りの皆もまた、かなり逞しいもんです。

あの3年間、本当に日々エキサイティングで、面白かったねーと、

昨日集まった皆で頷きました。

 

あっという間にオバさんになったし、体だって思うように動かなくなり、

残りの人生を逆算するこの頃、どうかな、私たちちゃんと大人になれたよね?

 

35年前の10代は、後先深く考えずにバカな事をガンガンして、

これはマズイ、これは危険、失敗だったーと自らの体験で学ぶしかなく

全く格好悪いことだらけですが

後で皆で笑い話して終わり。

だからなのか、かなり打たれ強いことはメンバーを見れば実証済みです。

 

現代では、情報先行で「こうするとよい」とマニュアル化されているので、

それは確かに効率がよく、子どもたちは賢く非常に品行方正です。

しかし何か問題に直面した時に、うまく解決できないと自分だけがダメだと追い込まれやすいのかもしれません。

 

時代は変わっても、人として生きるべくは同じ。
 

 

そんなことを考えた一日でした。

 


たまには空の広い所へ

世の中ただいまシルバーウィーク真っ最中!みなさんどうお過ごしですか〜

夏休みにどこへも行かなかった私は、

うう〜この空気の悪い東京から出てえ〜と常々思ってはいるものの、

自分ではなんも計画しない無精ものでございます。

「あさって大磯市だよ〜おいでよ〜」と地元の友人が誘ってくれたので、

夕方から湘南ライナーに乗り向かうことに。

(娘は、中間テスト前だからいかない とつれない返事だった・・・)

駅の改札を出ると、う〜ん、なつかしい潮の香り。

連休らしい光景、浜ではバーベキューしてたり、

そしてとってもいい波が立っていて、

サーフィンしている人には絶好です。

「大磯市」は、町おこしで始めた市だそうですが、

回を重ねるごとに人気で、駐車待ちのクルマがズラズラ〜

港がある町営プールの裏手で手作り品や雑貨を売っていたり、

大磯港であがった魚を焼いたり揚げたり、

フード類がとても充実してます!

訪れる人々はファミリーが多いかな・・・ワンちゃん連れてる人も多く見かけます。

早速、芝生にゴザしいて場所を確保し、

皆で手分けしてビールと美味しいものを色々買い込みました。

鯛めし、イカ焼き、直径20cmくらいのピザは行列待ち、

白身魚のフライ、タイ風焼きそば、カップ入りのフレンチトースト。

どれもウマウマ〜heart

暗くなってからも、暑くも寒くもなく、

広い空の下とっても気分よかったです。

友人たちとは、中学からの付き合いです。

ちょうど今の娘の年頃の私たちを思い出します。

まったくしょーもないことばかりして遊んでいた私たちでしたが、

その頃から家庭の事情で一人暮らしをしていた私にとっては、

楽しく行動を共にし、そして頼りになる仲間たちでした。

それぞれ部活だって違うし、高校だって別々だったけれど、

オバサンになってもこうして集まりぶっちゃけ話ができるのは、

共有した時間と、

お互いのいい所もかっこ悪いこともみんな知っているから。

また大磯市いこうっと。


むふ  にっこり  むふ  にっこり  むふ  にっこり  むふ  にっこり  むふ  にっこり  むふ  にっこり


ちょっと一息 海街diary

クリスマスまであと2週間。

ご依頼いただいた、いくつかのクリスマスプレゼント・ジュエリーが無事次々完成し、それらはもちろん、当日にそれぞれの大切な方へと渡るまでシークレットです。ので、今日は私の独り言をぶつぶつ・・・

日頃の私は、朝、娘を学校へやってから、ショップへ出勤するまでの2時間と、帰宅して夕食を作り、家族だんらんを済ませてからの2~3時間、工房で加工作業をしています。時々甘えてくるネコをナデナデして癒されながら、作業に集中する時間です。

24時をすぎたらゆっくりお風呂につかって、その後布団に入って眠るまでの間、録画しておいたドラマを見たりするのですが、「MOZU」が終わってしまい、現在は朝ドラ以外に見ているドラマがありません。

先日、娘が本屋さんでマンガを物色している時に、私も何かマンガ読みたいな〜と思いましたが何がいいのかがわからず、試し読み冊子をチラチラ。

後日、娘が「ちびまる子ちゃんのその後」の下巻を買いに行く時に、「おかーさんも買おうっと。オトナ買い〜。」と手にした「海街Diary全6巻」。

「あっずるぅい〜!!」「へへーん。だって大人だもんね。」

東京に出てくる以前の私は、小学校高学年から19歳まで平塚市の国道134号線まで歩いてすぐの、まさに「海街」に住んでいました。

アルバイトでお金を貯めて原付バイクや、車の免許をとってからは毎週のように、いえ時には週に何度も江ノ島〜小田原、箱根まで仲間と足をのばして遊んでいましたから、いいも悪いもキラキラした思い出がいっぱいの場所です。

鎌倉が舞台のこの漫画、祖母が残してくれた古い家に住む3姉妹+母親の違う末の妹、中学生のすずが一緒に暮らすところからお話が始まります。

3姉妹のキャラクターに加え、それぞれの職場の同僚や恋人、行きつけの店、転校してきた、サッカージュニアユースの実力のすずをとりまく同級生たちやその兄妹家族、親族親子の関係などがいろいろ絡み合い、思春期のすずを中心に物語が描かれています。

50を目前にしたオバサンでも、読み進むうち各所で、鼻の奥がツーンとなり、自分のことと重ねたりしながら楽しみに毎晩少しずつ読んでいます。

たまには海街へ行きたくても、なかなか行かれないからなあ〜
来夏、是枝監督により映画化されるとの事、映像になる海街の空気感がとても楽しみです。


消しゴムはんこと火事

消しゴムはんこ

ずっと、作りたいなあーと思ってた「消しゴムハンコ」。

とうとう、作ってみました。

ゴリゴリと掘って、インクを付けて押してみると、へなちょこ具合がなかなかいい感じ。

ミニ包装袋に押してみました。

ところでさっき、「緊急車両通ります!」と、お店の前を慌ただしいサイレンを鳴らした消防車が通りました!

火事!?ほんの数件先で煙が。ご近所さんが皆すっとんで出てきます。

しかしすぐ、「工事中の煙でした」と、一件落着。よかった〜。

数年前もすぐ近くで昼間に火事があったのですが、その時は通りから少し入った住宅だったためか発見が遅れて、消防車が駆けつけた時はもう2階建ての屋根の上まで火が上がり、離れた所から見ていたのですがとても怖かったです。お店の前にも灰や焦げたプラスチックのかけらやボールペンが落ちてきました。一人暮らしのお年寄りのお宅でしたが、けが人はいなくてよかったです。

その日は、小学校から店へ帰ってきた娘が、なんか燃やした臭いがする、と言ったのですが同じ通りにあるコンビニの焼き芋のニオイじゃない?と、風向きのせいか私にはわからなかったのです。

火事とわかって消防車が来たのはそれから1時間半以上は経っていました。毎日外を眺めて仕事をしているのですからもっと周囲の変化に気をつけなくちゃと思います。

ずいぶん昔ですが、私はテレビ局の報道車両のドライバーをしていました。

ニュース映像を撮影する為に、カメラマンや照明さん、企画ものの撮影の時はディレクターさん、大きな事件の時はレポーターやアナウンサーの方を乗せて現場に駆けつける運転手の仕事です。

埠頭にてコンテナから黄煙!ガス?とか湾岸トンネルでバス火災!などの大きな火事の時は、東京中から集まってきたんじゃないかと思う程の何十台もの消防車(化学車だけでもいろんなのがあるんですね〜)や救急車と一緒になって車を走らせていました。(3、4車線ある道路の場合です。)

事件性のある火事の場合、鎮火後に私たちはプレスの腕章を付けているので規制線の黄色いテープの中へ入る事ができるのですが、そういう仕事の日は、帰宅してお風呂に入っても臭いが取れなかったです。

火事や事件事故以外は、ガサ入れがくるのをを待機したり覆面車で隠し撮りに、なんてのもありますがたいていは霞ヶ関や永田町界隈の各省庁まわりや政治家のあれこれ、大学や病院、研究機関にもよく行きました。(そういう企画ものは比較的のんびり取材に向かうけど、帰り道の途中に連絡が入って、今すぐOO区O丁目O番地へ行け!となるんです。)

ジュエリー工房の改装やお店を持つために、お金を貯めようと始めたお仕事でしたが、ものすごい緊張感と責任感のある仕事内容で、いろいろな体験もできて勉強になりました。現場でのカメラマンさんたちは、一瞬をのがさない技術と職人魂のあるかっこいい一匹狼な方々が多く、そのとき見たブツ撮りの技法などは今私がジュエリーの撮影をするのに役だっています。

ベーカムと呼ばれるベータカメラが、デジタルのカメラに一割くらい移行し始めたばかりの時でしたので、撮影したベータテープは、ニュースに間に合わせるために、同じ報道車両の単車の人に渡して局に持ち帰ってもらうのですが、そのバイクの人たちがまたすごいプロなんです。

中継車がいる霞ヶ関まで信号6つあるけど2分で届けて、とか羽田から局まで10分で、とか、すっごい東京の西の山道から支局まで25分で、とか、絶対無理でしょ!ていうことをやってのけちゃう猛者たちです。

たぶん最初は、運転手の仕事が女性にできるのか、という目で皆に見られていたと思います。
でも現場では警察官や他局の方から「女子のドライバーなんだ、めずらしいね。」と顔を覚えてもらえました。

カーナビなんてついてない時代ですから、瞬時に地図でルートを判断、確認しながら1分でも早く到着するよう走るんです。愛用のピンクの表紙の地図はボロボロになるまで使いました。「絶対、確実にやり遂げる」といつも強く誓ってハンドルを握っていました。まあなんとかなるもんです。

運転手の仕事と並行して続けていたメーカーさんからの依頼のジュエリーの仕事も軌道にのってきたので、思ったより早く目標額を達成して、いよいよドライバーの仕事を退職するとき、取材撮影室のカメラマンさんたち皆がとても温かく送別会をしてくださいました。そのとき初めて、ああよかった、認めてもらえたんだな、とほっとした事を覚えています。

辞めて数年経ってからも、よく夢に出てきました。デスクからの指令で「どこそこへ行け!」って時計を見るとニュースまであと30分じゃん!とか、ギリギリの緊張感を強いられる冷や汗もんの夢です。夜中の2時に帰宅して翌朝7時出社!てのもありましたからキツイ日々だったしなぁ。

今日はボヤ騒ぎからついつい昔話になってしまいました。皆さん、火の元用心です!


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