同窓会に行きました。
昨日は高校の友人たちとの忘年会に行ってきました。
集まったのは女子6人。
出身中学も、高校でのクラスもバラバラだけれど、
高校入学時から卒業まで一緒に行動したメンバーで、
しかしこうして集まったのは初めてのこと。
これまでは子育てや仕事でなかなか機会がありませんでした。
話は盛り上がり・・・
自分ではすっかり忘れている
「あのときこんなことした」話
全くおバカなことだらけ。
私たちが通った高校は平塚の山の上にできた新設校
通学は不便でしたが校則はゆるく自由で、
身だしなみでとやかく言われることはなく
そのかわりテストの合計点が1点でも足りなかったり、
出席日数が一日でも足りないと進級できなくて、(追試や補講はない)
必死に勉強して受験したのに、入学後バイトと遊びに呆けた私は、
テストと出席日数に追われてそこは本当に苦しみました。
(大人になってからも度々、テスト!とか卒業できない、みたいな夢を見て。)
中学2年生から一人暮らしをしていた私のアパートには
同級生のほか、中学からの友人、他校の友人、先輩後輩も
ワラワラと集まり交友関係だけは広く、遊ぶことに事欠かず。
私の原点とも言えるそのアパートは、海岸線と呼んでいた135号線から200mくらい入った
小さな商店街の真ん中にある一本松、その「扇の松」の隣にありました。
夜、バイトから帰ってくると、地元の先輩たち(2〜4歳上の)が10人〜15人くらい、
扇の松の下に集まって、楽しそうにおしゃべりをしているのです。
彼らはとても陽気で、そして仲がよく、私にとって頼もしい存在でした。
一人暮らしの私を妹分として見守ってくれていたおかげで
のびのびと安全に?楽しくお外で遊べたのです。
野郎同士が集まるとこんなバカな話するんだなーと、勉強になったし。
皆、休日に自慢のマイカーのエンジンを積み替えたり、カスタマイズして
夜な夜な箱根に試走に行きました。途中、お玉ケ池のお化け屋敷に寄って肝試し。
ササッと往復して小1~2時間です。後に自分も免許を取って走り回ったので、
山道の運転は大好きです。当時はマニュアル運転ですね。
毎週土曜日、大勢で富士急ハイランドへ行きオールナイトでスケート鬼ごっこしたり
この頃の話は、一冊本にできるくらい面白いことがたくさんありました。
というわけで、高校の先輩たちとも仲良く、誘われてバンド活動でライブしたり、
好き勝手に楽しい日々を過ごし。
夏は江ノ島、大磯や白浜の海に行き、祭りでお神輿を担ぎ。
学校帰りバイトのない日は誰かの家か喫茶店へ。
隣のテーブルには他校の女子グループがいて、もちろん仲良しです。
そうして横のつながりがどんどん広がり、
街のおまわりさんとも、繁華街の客引きのおじさんとも、顔なじみでした。
高校3年になり、遊ぶにも飽きて?真面目に学校に通って無事卒業。
文系クラスになってからはクラスに女子が多いので、
ますますおバカな事も着替えもお構いなし。
危険なことも多々ありました。行動範囲が広い分
バイクの事故や怪我でしょっちゅうトラブルも。
でも辛かったことより楽しかった思い出の方が残るものです。
嫌なことがあったり、何かを決める時、私は一人なので誰かに相談する習慣がなく、
そのため何事も決断は早く、悩む暇あったら次!となったのだと思います。
そして周りの皆もまた、かなり逞しいもんです。
あの3年間、本当に日々エキサイティングで、面白かったねーと、
昨日集まった皆で頷きました。
あっという間にオバさんになったし、体だって思うように動かなくなり、
残りの人生を逆算するこの頃、どうかな、私たちちゃんと大人になれたよね?
35年前の10代は、後先深く考えずにバカな事をガンガンして、
これはマズイ、これは危険、失敗だったーと自らの体験で学ぶしかなく
全く格好悪いことだらけですが
後で皆で笑い話して終わり。
だからなのか、かなり打たれ強いことはメンバーを見れば実証済みです。
現代では、情報先行で「こうするとよい」とマニュアル化されているので、
それは確かに効率がよく、子どもたちは賢く非常に品行方正です。
しかし何か問題に直面した時に、うまく解決できないと自分だけがダメだと追い込まれやすいのかもしれません。
時代は変わっても、人として生きるべくは同じ。
そんなことを考えた一日でした。
- 2017.12.10 Sunday
- まいヒストリー
- 15:46
- comments(2)
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- by yumi matsushima
⇒同感です。
人生の終焉を迎えるとき、走馬燈の中にあの頃の記憶が一番多く占めるような気がします。