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私がこの仕事をするようになったのは・・・

私がジュエリーの勉強を始めたのは

なんと34年前!のことでした・・・

 

ここへお店を開いてからは16年経ちます。

 

 

自作の品物を並べて販売したり

 

お客さんの注文をお受けして制作したり

 

修理やリメイクのご相談を承ったりする毎日です。

 

 

ふらっと立ち寄ってくださった方から

 

「いいわね〜ご自分の趣味がお仕事になって〜」

 

と言われたりもします。

 

 

でも、始めた頃の私は

実はジュエリーやアクセサリーに全く興味がなかったので

 

「趣味を仕事に」とは少し違うかもしれませんが

 

「物作りが大好き」なことに間違いありませんでした

 

 

 

こうして今、ありがたいことに

長年、ごひいきにしてくださるお客様や

 

地域の皆様も気軽に寄ってくださり

 

HPで見つけて

わざわざ遠方からご相談にいらっしゃる方も増え

 

 

微力ながらも、誰かのお役に立てる事ができて

この仕事を選んで、続けて良かったなぁと思います。

 

 

ブログを始めてからも、何年も経ちましたし

突然ですが、これまでを振り返ってみようかな〜なんて

 

 

せっかくなので自身の記録として

 

幼少期から書こうと思うので

何回かに分けてアップします〜

 

ご興味のない方はスルーしてくださいね!

 

 

 

 

 

子供の頃は特殊な家庭環境で育ちました

 

私は5人兄弟のまん中ですが

5人が一緒に生活したことはありません

 

なので私は、その時々で

末っ子でもあり、長女でもあり、

一人っ子でもあるような環境でした

 

 

生まれたのは仙台です。

 

父が務めていた大学のそばで

青葉城の裏手?の

公務員団地に住んでいました

 

学生運動がピークだった頃で

その先頭に立つような父でしたので

 

大学をクビになった父は

 

ノイローゼ&育児放棄の母と離婚し

 

15以上歳の離れた美人な大学院生と再婚しました

 

 

そのため、

姉は中学から、兄は高校から

東京でそれぞれ下宿生活となり

 

私はまだ小さかったので

 

3~5歳の間は

巣鴨の祖父母の家で育ててもらいました

 

家におもちゃはなかったけど

 

外遊びと読書が大好きで

 

親戚のおじさんがくれた

分厚い童話全集が一冊あるだけでしたが

 

ルビがふってある本なら読めたので

それをなんども繰り返し読みました。

 

色なしの挿絵がたまにちょこっとあるだけなので

異国のお話は、想像力を膨らませて・・・

 

あとは、TVアニメ

アタックナンバーワンの真似をして

 

こずえ、行くわよ!そーーれっ!と

畳の上で、紙風船でアタックしたり

回転レシーブしたり・・・

延々と一人で楽しく遊びました〜

 

紙風船だから、スローモーションになるんです笑

 

実写のバレーボールドラマもあったっけ。

主人公ユミだった?イナズマ落とし?竜巻サーブ?

ちょっとうろ覚えですが・・・

 

あと、デビルマンも好きでした〜

夢にアキラが出てきて、バイクの後ろに乗せてもらった!

 

 

祖母は働き者で、裁縫や料理が上手で

 

毎年、樽で漬ける白菜の漬物や

きゅうりのぬかづけが絶品でした

 

日本画を描くのが趣味で

茅ヶ崎に引っ越しをした80歳まで続け

地元の銀行に祖母の絵が飾ってありました。

 

私の姉は、洋服のデザイナーになったので

 

姉と私の手先の器用さは、

祖母譲りかもしれません

 

その頃、農林省から森永へ移った祖父は

缶にいっぱい詰まったウエハースを

よくお土産に持ち帰ってくれましたが

 

当時のはなんだか薬臭くて

すぐしけちゃうし、美味しくはなかった・・・

 

祖父は毎晩、隣で寝るときに

お話をひとつしてくれました。

 

私は日本昔話や民話を、本でたくさん読みましたが

祖父の話はそのどれともかぶらないので

おじーちゃんすごい!と思っていました。

 

新潟出身の祖父が

昔から聞き伝えで知ったお話もあったでしょうけど

多くは、創作だったんじゃないかと思います。

 

祖父の大好きなお相撲さんが話によく出てくるので笑

 

 

さて父と継母は、東京でアパート住まい

 

2人で外国小説の翻訳仕事をしていましたが

一冊終わると飽きたのか?さっさとやめて

 

私を引き取り、3人で八王子に住み始めます。

 

そこで私は幼稚園に数ヶ月だけ通いました

 

絵を描いたりが好きで

 

リカちゃん人形などのおもちゃは買ってもらえず

 

紙の着せ替え人形を買ってもらい

 

自分で好みのドレスや洋服を描いて手作りし

それを着せて遊んでいました。

 

 

父の新たな職場が

神奈川県立リハビリ病院に決まったので

(医者じゃないです。言語科の先生)

厚木の緑ヶ丘に引っ越しをしました。

 

 

裏手に農協の山があり、田んぼでザリガニ取ったり

自然がいっぱいの環境です

 

次に、病院勤めの家族が住む

厚木市戸室の団地へ。

 

団地には子供が多いので、

缶蹴り、ケイドロ(ドロケイ)三角ベース。。。

穴掘って角材とトタンで基地作りと

 

外で遊ぶのに事欠きません。

 

ある日、今日は誰も出てこないな〜と

私は一人で、団地内の人があまり入らない芝生に

「小人の家」を何気に作り始めました。

 

玄関、ベッド、テーブル・・・

詳細は忘れましたが、葉っぱや小枝などで

ジオラマを作ったのです。

 

自分で言うのもなんだけど、その出来がすごく良くて

私は物作りが得意なんだなーと、自覚した気がします。

 

次の日見に行ったら無残につぶれてた悲し

 

 

学校では画板持って写生によく行かされました。

 

風景画はあんまり好きじゃなかったし

それほど上手じゃないけれど

 

教室の後ろに貼り出される時に

金色の折り紙を付けてもらい。

 

でも今思うに、

私がこの仕事を確立させるまでが

遅咲きすぎたのは

 

貧乏だったのもあるけれど

 

小さい時、誰かから

自分の才能を褒めてもらったことがないので

(親は無関心、学校も転校ばかりで記憶がない)

 

だから小中高の間

物作りの方向に行こうとは思いつきませんでした

 

 

DVがエスカレートする継母から逃れ

中学2年生から一人暮らしを始めて

正月など友達と遊ばない日は、手芸に没頭しました

 

フェルトでマスコット作りから始まり

 

編み物、ミシン・・・10代の時は、

買い物に行くとテンション上がるところは

 

原宿に次いでユザワヤ!キンカ堂!

 

図書館で手芸の本を借り

本に載っているままを作るのは嫌なので

自分でデザインをアレンジして

 

こっちの方が断然可愛い!と1人で盛り上がり

コマこまと作っていました。

 

中1の時、家庭科で

枕カバーを作りそこに刺繍をする課題がありましたが

デザインは自由で、私は天使の刺繍をし

 

それが・・・プロか?と思うほどの仕上がりで

自分でびっくりしました。自画自賛
 

しか〜し、図画工作でも、家庭科でも

デザインの自由度がないものはつまらんのでサボり

提出すらしないので

 

通知表では2とかでした・・・笑

 

 

 

私が作ったものは何も手元に残ってないけど

姉のところに「一休さん」のマスコットがあることが

大人になって判明

 

中2の私が盲腸で入院となり

社会人で働いていた姉が世話をしてくれました

 

退院した時に、姉が 

これカワイイからちょーだいと言うので

しぶしぶ一休さんをあげたんだそうです・・・

 

その一休さんが

めちゃプロ技なパターン&縫い目&デザインで

かなり可愛かった!

 

お姉ちゃんいつか写真送って〜

 

今はもうあんなにうまく作れないと思う。。。

 

続く

 


コメント
その頃の由美ちゃんの世界に入っていくようだよ。放課後家で一人で遊んだり…外で何か作ったり。今とは時間の流れが全然違う。
大人(親)って勝手だよね。いつの時代も。^_^;
  • mami
  • 2019/05/22 3:14 PM
10代の頃は、友達同士で家庭のこと深く聞いたり聞かれたりしなかったけれど、大人になって話してみると、みんな結構色々あったりするんだよね。
でも皆たくましく生きてる〜
  • ストーンスパイア
  • 2019/05/24 5:31 PM
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